人生でいくつかの修羅場、というか、非常に困窮する瞬間は、経てきた。
それに比べたら、醒めた気分だ。
いま、この瞬間さえも。
「どういうことか、説明してもらえるか」
乾いた声で上条がつぶやく。
言葉こそ依頼形だが、内容は命令形だ。
だが、目の前の光景の、何に説明がいるのだろう。
着くずれた衣服で、みなとが男の腹上にまたがっている。
周囲には、特有のにおいが漂う。男ならだれもが知っているものだ。
汗ばむ季節にはまだ早い。
けれどみなとのこめかみはしっとりと汗に濡れ、柔らかい髪がその肌に波をつくっていた。
そしてみなとを腹上に載せた男が、にやりと笑う。
「あっ・・・」
男が不意に上体を起こしたので、みなとの体が傾き、交接部分がくちゅりと粘質な音を立てた。
深く交わっていたそこは、体勢を変えることで浅い挿入へと変化し、思わぬ刺激にみなとは目を閉じた。
反応し、熱が集まるみなとの中心を、男は抱き寄せて密着させることで、わざと刺激する。
呼吸も浅く、背を走る快感にみなとの目じりから涙が落ちた。
それをどう誤解したのか、上条が やめろ と悲鳴のようにつぶやく。
男はやめず、見せつけるようにみなとの脇に手を差し入れ、首元に唇を寄せながら、みなとを挟んで上条と向き合った。
幸いにして、みなとは上条に背を向けているので、相手の反応や表情を知らずに済む。
深く咥えこんだ男が、上条という第三者の登場にひるむどころか、ますます興奮しているのを身の内に感じ、みなとは口元だけで笑う。
前々から精神がおかしいと思っていたが、この状況でより熱くなるなんて、どんな神経なのだろう。
そして、怯むどころか無視して交わり続ける自分も大概だと自覚する。
本当に、おかしいもの同士まさにぴったりだ。
上条が、男の名を呼ぶ。
知り合いだったのか、とみなとは頭のどこかで考え、次いで当たり前かと納得した。
たしか、二人は学年が同じだった。
この男も内部進学組なので、閉鎖的な学内のこと、この二人が知り合いでもおかしくないのに、頭のどこかで切り離していた。
みなとにとって、これは夢の中の出来事と一緒だ。
「いますぐ、みなとくんを離したまえ」
声が震えている。
男は挑発するように、みなとの耳朶に口づけた後、にやりと笑んだ。
「ひきはがしてみろよ?」
「・・・・!」
挑発は成功したようで、上条はかっとなった勢いに任せて、みなとを男から引きはがした。
「ぁっ」
無理に解かれた交接に、みなとののどから小さな声が漏れる。
力強く抱き寄せられた後、上条は己の制服を脱ぎ、みなとにかぶせた。
そんなことをして、制服が汚れるのに、と、みなとはそれしか感想が浮かばない。
布越しに、上条が相当激昂していることが分かる。
どくどくと脈打つ鼓動は早く、交わっていた快感から放り出されたみなとのだるさを、妙に落ち着かせる音だった。
「二度とみなとくんに近寄るな」
震える声は、怒りか、悲しみか、動揺か。
泣きだす一瞬前の、のどがきゅっと詰まった者が出す声に覚えがある。
強く強く抱きしめられ、みなとは目を閉じた。
「安心しろ。俺は今日でサヨナラだ」
「・・・・・。」
男の言葉に、上条がしばし考える気配がする。
「そうだったな。確か、2学期からは別の学校に行くんだったな」
みなとは知らなかった。
いつも薄いブルーの封筒で呼び出され、今はもう人が使わない部活棟の一室で、ひそかに会うだけ。
校内で見かけても、互いに知らんふりをし、名前も一切詮索しない。
向こうはみなとを知っていたようだが、みなとは知らなかった。
知ろうともしない。どうでもいい。誰だっていい。
そんな相手と、なんどもなんども達してきたこの一年を思うと、バカバカしくて我ながら低俗だと思った。
「賭けに外れた」
ぽつり、と男が言う。
手早く身支度を整え、先ほどの狂乱じみた行為が嘘のように、男は立ちあがった。
最後の最後で、どさくさにまぎれてみなとの中に果てたのだから、「不都合」はないと見え、そのまま出口に向かう。
震える上条の腕の中で、みなとがぼんやりと男を見る。
こうして互いに見つめあったのは、もしかしたら久しぶりかもしれない。
いつも顔を合わせる暇もなく、むさぼられた。
自分も、あえて相手の目を覗き込むことをしなかった。
「お前の信奉者なんていくらでもいるけど、上条だけは特別みたいに見えたからな。お前の本命はそいつなんだと疑ったんだが・・・違ったな」
声は、みなとにかけられたもの。
みなとは応えず、ぼんやりと男を見つめ返した。
男の目が綺麗だなと、初めて思った。
「俺はもう、明日からこの学校を去る。最後にお前をここに残していくのが癪だから、賭けた。お前の本命の前で、見せつけてやれって。そしたらこれだもんな」
あてがはずれた。
男は上条に向かって皮肉げに笑う。
「お前も大したことなかったな。結局、俺らはみなとのお眼鏡にかなわなかったらしーな」
「・・・失せろ」
低い上条の声に、男は愉快そうに笑い、最後の一瞬だけ視線をみなとにかすらせる。
別れの言葉はもう残っておらず、男が部屋を出ていった後には沈黙だけがあった。
いつまでも抱きしめられていることに意味はなく、みなとはのろのろと身を起こした。
あられもない衣服を整えないと、しわになる。
その程度の動機だったのだが、上条は「すまない」と何か誤解したように恐縮した。
謝る意味がわからない。
足に力を入れようとっした瞬間、なまあたたかい物が腿を伝う。
その感触が気持ち悪くて眉をひそめ、動きが止まってしまった。
上条が何の気なしに視線を落とし、みなとの足に男のしるしを見つけ、息を飲むのがわかった。
清めよう、と、制服のポケットからいつものウェットティッシュを取り出そうとした瞬間、みなとの世界が反転する。
組み敷かれた。
けだるげに視線を動かし、相手の目を探り当てると、泣いていた。
どうして上条が泣くのか。
だん、と、みなとの頬の横に、衝撃が走る。
痛みはない。
みなとの顔の横にある床を、上条が殴ったらしい。
何度かその行動は続き、やがて絞り出すように請われた。
「どういうことか、説明してもらえるか」
先ほどと全く同じセリフ。
みなとも、聞きたかった。
なぜ、この場所を上条が知ったのか。
なぜここにいるのか。
でも先に尋ねたのは上条で、質問に質問で返すのはフェアじゃない。
身を起こそうと身じろぎすると、上条がぽつんと謝ってきた。
「・・・ごめん」
いつもの口調と、少し違った。
ふざけてか、癖なのか、いつも年のわりには大人びた口調を選んでいたが、今日は年相応の子供のように謝る。
「さっき、君に一瞬、欲情した。守らなきゃって思ったのに、結局あいつと同じように汚そうとした。卑怯できたない人間で、ごめん」
「・・・・・。」
みなとは、初めて本気で、上条に対してとまどった。
「責めたいんじゃない。でも、教えて。これは一体、どういうこと」
流れる涙をぬぐいながら上条は請い、みなとは初めてこの人に「悪いことをした」と苦く感じ始めていた。
校内で、どうでもいい男と何度も何度も、男同士で抱き合った。
そのことに、倫理とか、常識とか、そんな理由で罪悪感を抱くことはなかった。
けれども、上条に対してだけは、きっと申し訳ないことをしたのだろう。
素直にそう思えた。
だから、誰にも今まで話したことのなかったことを、打ち明けた。
話は、去年の春にさかのぼった。