むせかえる、雄の匂い。
肩で息をしながら薄目を開けると、北島の端正な顔がそこにあった。
まつ毛の長さに気付ける距離。
少しだけ、身を走る衝撃に意識が遠くなったようだ。
身じろぎすると、放ったもので肌がぬるりとすべる。
どちらのものかわからない。
気まずさと、状況の把握をしたい気持ちで心が相克しあう。
そして、覚悟していたよりも至近距離に、その瞳を見つけた。
泣いている。
北島の目に、涙のまくが広がっている。
なぜ、と、身を起こして顔を覗き込もうとすると、それを嫌がるように顔をそらされた。
「見るな」
そう、言われても。
戸惑う木戸の胸に倒れこみ、北島がしゃべる。
「僕のこと、気持ち悪いって思ってないんだなぁって思ったら、・・・安心して」
話すと、振動が密接した肌から伝わって、こそばゆい。
「ちゃんと、出してくれたから」
「・・・ごめん」
反射的に謝ってしまった。
北島の想いに、戸惑っているのは事実だ。
けれど生理的な欲求をあおる熱に、抗えなかった。
そのせいで、北島の塑像のようなきれいな肌を、汚してしまった。
生々しい白濁の飛沫が、その肌に踊るさまを思い出す。
「謝るなよ。謝るのは僕のほう」
そうしてそのままぎゅうと抱きつかれる。
ぬちゃ、と粘着質な音が、互いの肌の隙間から立つにいたり、さすがに木戸も居心地が悪くなる。
「ええと、ごめん。シャワー、借りてもいいか」
互いの心情についての感想は、ひとまず横においておきたい。
いまは、汗と、恥ずかしいものでまみれた身を清めたかった。
「・・・・ん」
同意ともとれる返事をよこし、のろのろと身を離す。
けれど、完全に身を起こす前に、もう一度、唐突に抱きしめられた。
「!」
「嫌いに、ならないで」
「・・・。」
こいねがわれた言葉に、木戸はすぐに答えることができない。
明らかに、自分でする自慰とは違う行為。
男同士で、ということと、先ほどまでは(かろうじて)友達として接してきたのを、どう切り替えていいのかわからない。
混乱している。
混乱している中、ふと、先ほど脳裏によみがえった映像が引っかかった。
子供のころの記憶、なのだろう。
はっきり思い出したわけではないけれど、そう、たしか、みつき、という音の響きに、自分は昔、触れたことがあるような・・・。
「木戸、こっち」
手を引かれ、のろのろと立ち上がる。
とりあえず今は、シャワーをあびて、身を清めて・・・
「え!一緒に入るのか!?」
「僕だって、はやくきれいにしたいんだよ」
「え、じゃあ、北島の後でいい」
「・・・・いいからっ」
強引に引き込まれた他人の家の浴室で、木戸はいたたまれなくて気まずくて、心のそこから逃げたい、とつぶやいていた。
明日から、どんな顔をして会えばいいのか。
一人北島家を辞去した木戸は、空が夕焼けに近づいているのを知る。
キスされた時も思ったが、あの時は勉強という逃げ道があったし、まだ笑ってごまかせる程度の接触だった・・・・いまとなっては、だが。
けれどこれは、まずい。
雰囲気に流されたとはいえ、絶対に「ともだち」とはしないようなことをしてしまった。
体こそつながらなかったが、他人の手でありえないところを触られ、口に含まれ、あおられ、まんまと達してしまった。
思い返すだけで、恥ずかしさは致死量だ。
救いは、明日はもう終業式だということ。
夏休みに入ったら、すこし距離をつくって、冷静に物事を考えられる・・・・はずだ。
よし。
と、そこで気づく。
間抜けなことだが、定期券を忘れてしまった。教室に。
帰り際のバタバタで、机の中にハンカチで定期入れや学生証を包んで突っ込んでいるのをまるっと取り損ねた。
カバンに入れていたペットボトルのふたが緩んで、中が水浸しになってしまったが故の処置で、それらを忘れてしまった。
財布・携帯・家の鍵はズボンのポケットにある。
そのまま帰宅しようと思えばできないこともなかったが、一応貴重品を一晩身からはなすのはお落ち着かないし、今日はいいとして、明日の通学にも定期券は必要だ。
高校生にとって、往復の交通費は馬鹿にならない。
マクドナルドに行って、一番好きなセットが買えるくらいのお金になってしまうのだ。
幸い、北島の家は徒歩圏内。
体にのこるかすかな倦怠感と、あおられた身の内の熱を冷ますためにも、ちょうどいい散歩道かもしれない。
それにしても・・・どうしよう。
北島の想いが迷うことなく恋であり、それはまるで男女の間のもののように、欲情を伴うものだということはよくわかった。
けれど。
光輝は、違うという。
恋ではない、と。キョトンとした顔で。
こちらが、キョトンとしてしまった。
なんだそれは、あんだけさんざん好きだと言って?キスもしておいて?抱きついてきて?
別に恋情を期待したわけではない。
恋じゃないと言われた方が、木戸の常識からいって、納得がいく。
余計な茶々が入れられたせいで、北島は秘めていた感情をさらすこととなった。
おかげで、3年来の友情が、まさかの危機を迎えた。
どうしようかなぁ、と、教室の前にたどりついたときはもう夕闇を通り越して、夜が近くなってきた時間だった。
かろうじて電気をつけずとも用をなせそうだったので、そのままがらりと引き戸を開ける。
人の姿が、窓辺にある。
ぎくりと身をこわばらせた。
光輝だ。
あれから2~3時間は経ったのに、誰もいない3年の教室に、ひとり着座している。
それは違うことなく木戸の席で、木戸の戸惑いは増す。
「・・・ずっと、いたのか?」
ぱちりと電気をつけると、悄然とした横顔がのろのろとこちらを振り返る。
「きど、さん」
「・・・早く、帰れ。北島の言ってたことは、気にしなくていい」
近寄るなとか、さんざん罵られていた。かわいそうに。別に光輝は北島のような意図でなついていたわけではなかったのに、誤解されて逆鱗に触れた。
「それにしても、お前も人騒がせだ。これからは、言葉も態度も高校生らしくしろ」
「・・・・・・・・・昔と、同じにしてただけです」
木戸の言葉に、たぶん、はじめて光輝が逆らった。
あれ、と木戸は歩みを止める。
「・・・・?昔、って?」
「オレは、昔とおんなじように接してるのに。変わったのは、きどさんの方です」
たぶん、はじめて光輝が木戸を責めた。
「・・・・・・おい、福原」
「ずっとずっと、あの頃からきどさんが大好きで、きどさんに会いたかったのに!」
たぶん、はじめて、光輝は『喜』以外の感情を、木戸にぶつけている。
そして、泣いていた。
光輝の目から、何か機能が壊れたんじゃないかと思うくらい、ぼろぼろと涙の粒が流れる。
すこし、長めの沈黙が置かれた。
木戸は何と答えるべきか言葉を探し、そしてあの記憶ともつかないあやふやな言葉の列を思い出す。ひらめくように、突然に。
「みきじゃない」
「・・・・え?」
「みきじゃない、みつきだ」
「!!」
言葉の効果は絶大で、光輝の目がみるみる大きくなる。
頬に、ゆっくりと血が上る。
ゆるやかに染まる朱は、喜びか、羞恥か、もっとちがう興奮か。
「あれは、お前だったのか」
木戸は、部活に入っていない。
運動系の部活など、ご法度だ。
それは幼いころに大きな手術をしたからで、激しい運動に耐えられる体ではないのだ。
さきほどシャワー室で、北島が驚きの声を上げたくらい、腹部にきっちりと今でものこる引きつれた痕はその時のもので、あの頃の苦しい記憶は木戸の中であいまいにかすんで明瞭な形を持っていない。
それでも、言われてみれば、どこかひっかかるものがいくつかある。
舌足らずに自分を呼ぶ声、泣いた顔、まとわりついて胸に飛び込んでくる茶色い塊。
おびえたような目が、嬉しそうにほころんだ瞬間。
肩にかけてあげたタオルに書かれたひらがなを、何度も復唱する声。
きど、たからさん。
「お前、昔、あの病院にいた子だな」
木戸が確認するようにささやくと、再び光輝の涙の堰は壊れたらしい。
がたん、と激しい音を立てて椅子から立ち上がる。
迷うようにその手が空をさまよい、結局は、ものすごい勢いで木戸の胸に温かいものが飛び込んできた。