一度は泣き止んだ光輝だったが、風呂上がりで木戸の部屋に戻ってきたときには、再び涙目だった。
「どうした?」
「・・・ちがうせっけんの、におい」
またそこか。
木戸家の風呂場にあるせっけんの匂いと、先ほど木戸から香ったそれとは違う。
それはすなわち、木戸がよそでせっけんを使うようなことを、木戸に想いを寄せる者と去った後でした、ということを意味する。
本当に、変なところだけ聡い。
まだなにかぐずぐずと言っている光輝の声を振り払うように、タオルケットを頭から引き被った。
こういう時は寝てしまうに限る。
ひとまず、明日の終業式を終えれば夏休みだ。
「早く寝ろ」
客人である光輝にベッドを譲った結果、その床下に寝るのは本来の部屋の持ち主たる木戸。
客用の布団は普段しまわれているのに、お日様の匂いがするのは、母がこまめに日に当てているからだろう。主婦、おそるべしである。
「電気はそこのリモコンで」
返事を待たずに寝る体制に入った。
そのまま早々と寝てしまおう、光輝が何か言ってきても眠ったふりをしてしまえばいい。そう作戦を立てた木戸は、意思を示すように目を強くつむる。
沈黙は、けれどたった数分しか持たなかった。
「あのときと、逆ですね」
電気はいつのまにか消されていて、闇の中に光輝のつぶやきがじんわりととける。
「病院のベッドに木戸さんがいて、オレはその隣をうろちょろして、大人たちからかくれんぼして・・・でも、オレを見つけになんて、誰も来なかった」
「・・・・・。」
返事がしにくい流れの話だった。
「木戸さんは、あの時と変わらない。いつもさりげなくいてくれて、オレが一人にならないようにしてくれる」
そんないいものじゃない、と答えようとしてためらう。
思い出の中の木戸は、光輝のものだ。周囲がとやかく言うことではない気がした。
「覚えてますか。いくつか約束をしたの。約束というか、お願いの方が近いかな」
「・・・。」
少しだけ、記憶を探る。
覚えているような、覚えていないような。
「きず」
不意に投げられた単語に、木戸の記憶が一気に動き出す。
「傷が残る前の、木戸さんのお腹、覚えてます」
―――手術で、ここに大きな傷が残るんだ。
そう、パジャマの上からすっと指で線を描いた木戸の指は、こども特有のぷくぷくしたものだった。
―――いたいの?
そう、その指が描いた線を、さらにぷくぷくした手がたどる。
―――わからない。麻酔をするから痛くないって言われたけど、お腹を切るんだもんなぁ。
想像しただけで、本当は震えるほどこわい。
けれど、何度も何度も手を握って 大丈夫よ と言う母の声が弱音を封じた。
―――んっ
―――何するんだよ、寒いっ
急にパジャマをめくられ、こども特有のぷくぷくしたお腹を剥かれる。
―――おぼえてる。みつきが、おなかをおぼえてる。
―――なんだよ、それ。
光輝は真剣そのもので、言い募った。
―――きずがない おなか。
それを。
―――ぼく、ずっとおぼえてるよ。
「・・・そうか」
約束を、小さな約束を、ずっと覚えていてくれた光輝のことだ。
きっとその言葉も本当なのだろう。
「はい」
衣擦れの音で、光輝が身じろぎをしたことを知る。
背中ごしにベッドの上で彼がこちらを向いているのがわかる。
かすかな物音で、彼がベッドから降りたのも、タオルケットをそっと引っ張る感触で、すぐ近くにいることも、暗い中で伝わる。
「きどさん」
そっとささやかれる温度で、見えなくてもその表情がわかる。
けれど。
「すきです」
「・・・。」
何と答えていいのか、それだけはわからなかった。